福山諸聖徒教会 教会だより 2017年1月号 |
司祭 マルコ 平野一郎
人は誰でも人生の内で何度も、自分の進むべき道が閉ざされ、希望の光が見えない、前が見えない、先の見通しが立たないということがあるかと思います。
同じように使徒聖パウロもそうであり、彼がシラスとテモテと共に、小アジア州に広く伝道したいと思っていましたが、しかし、神様の霊によって、彼らの歩みにストップがかけられ、思うようにならなったからでした。
「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」(使徒言行録16:6-9)と記されている通りです。
このようパウロたちは事実上、道を閉ざされ、自分たちの歩む道を進めず、非常に落胆したことが想像されます。
道が閉ざされた時
使徒パウロたちは途方に暮れ、仕方なく西へ、西へ進むことになり、結局、トロアスという港に行く着くことになりました。
パウロはトロアスでおそらく、御心を求めて祈ったことでしょう。そうすると彼に「マケドニアの幻」(使徒言行録16:9)が示され、そこから海を渡り、サモトラケ島、ネアポリスを経て、フィリピという場所に導かれます。
実はこのことこそ、キリスト教がヨーロッパにもたらさせる最初の出来事となり、後の教会史に絶大な影響をもたらすきっかけとなりました。
もし、パウロに道が閉ざされていなければ、ヨーロッパ伝道につながることもなかったでしょう。
この意味で神様のなされる業は人間の思いや考えを超えていて、「わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)と言え、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)と言えるのではないかと思います。
神がドア閉める時、別の扉を開けられる
パウロは一時、道が閉ざされましたが、しかし、神様からまた別の道が用意されました。
同じようにブラジルのことわざに「神がドア閉める時、神は窓を開ける」とあります。
またアイルランドのことわざにも「神様はドアを閉める時、必ず、どこか別のドアを開けていてくれる」とあります。
私たちは時に、突然、襲ってくる突然の不幸、災いの出来事に八方ふさがりになり、道が閉ざされるような経験をすることがあります。
しかし、道が閉ざされることによって、神様の備えられる、恵みの別の道が用意されていると言えるのではないでしょうか。