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日本聖公会 福山諸聖徒教会

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  • 福山諸聖徒教会 教会だより 2017年1月号
    [ 2017-01 -18 13:32 ]
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2017年 01月 18日

福山諸聖徒教会 教会だより 2017年1月号

    使徒パウロの落胆

          司祭 マルコ 平野一郎

人は誰でも人生の内で何度も、自分の進むべき道が閉ざされ、希望の光が見えない、前が見えない、先の見通しが立たないということがあるかと思います。

同じように使徒聖パウロもそうであり、彼がシラスとテモテと共に、小アジア州に広く伝道したいと思っていましたが、しかし、神様の霊によって、彼らの歩みにストップがかけられ、思うようにならなったからでした。

「さて、彼らはアジア州で御言葉を語ることを聖霊から禁じられたので、フリギア・ガラテヤ地方を通って行った。ミシア地方の近くまで行き、ビティニア州に入ろうとしたが、イエスの霊がそれを許さなかった」(使徒言行録16:6-9)と記されている通りです。

このようパウロたちは事実上、道を閉ざされ、自分たちの歩む道を進めず、非常に落胆したことが想像されます。


道が閉ざされた時

使徒パウロたちは途方に暮れ、仕方なく西へ、西へ進むことになり、結局、トロアスという港に行く着くことになりました。
 パウロはトロアスでおそらく、御心を求めて祈ったことでしょう。そうすると彼に「マケドニアの幻」(使徒言行録16:9)が示され、そこから海を渡り、サモトラケ島、ネアポリスを経て、フィリピという場所に導かれます。

実はこのことこそ、キリスト教がヨーロッパにもたらさせる最初の出来事となり、後の教会史に絶大な影響をもたらすきっかけとなりました。

もし、パウロに道が閉ざされていなければ、ヨーロッパ伝道につながることもなかったでしょう。
 この意味で神様のなされる業は人間の思いや考えを超えていて、「わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)と言え、「神のなされることは皆その時にかなって美しい」(伝道の書3:11)と言えるのではないかと思います。

    神がドア閉める時、別の扉を開けられる

パウロは一時、道が閉ざされましたが、しかし、神様からまた別の道が用意されました。

同じようにブラジルのことわざに「神がドア閉める時、神は窓を開ける」とあります。

またアイルランドのことわざにも「神様はドアを閉める時、必ず、どこか別のドアを開けていてくれる」とあります。

私たちは時に、突然、襲ってくる突然の不幸、災いの出来事に八方ふさがりになり、道が閉ざされるような経験をすることがあります。
 しかし、道が閉ざされることによって、神様の備えられる、恵みの別の道が用意されていると言えるのではないでしょうか。
 私たちは閉ざされた道、あるいはドアが閉められた先には、神様が恵みへと導く、別の道や別のドアや窓を開けられておられることを覚えたいものです。



▲ by seikoukai_fukuyam | 2017-01-18 13:32 | 今日のことば | Comments(0)
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