福山諸聖徒教会 教会だより 2016年5月号 |
神の愛
司祭 マルコ 平野一郎
ある国に一人の王がいて、その王に仕える大臣は博識で、聖なる人でした。
大臣はパレスチナを旅した時、キリストの話を聞いて、いたく感動し、ついにキリスト教徒になりました。
彼が国に戻ると、自分がキリスト教徒になったこと、罪人を救うために世に降った救い主を信じていることを人々に告白しました。
王は「余は、何かをさせたい時には、一言、家来に命じるだけでそれは果たされる。一言で人間を救えるはずの王の王が、何故この世に来て受肉しなければならぬのか」と大臣に 言いました。
そこで大臣は、答えを出すまで、一日猶予をくれるよう王に願いました。
そして、彼は有能な職人に命じて人形を作らせ、王の一歳になる子供そっくりに着付けさせ、翌日待っているように命じました。
その翌日、王と大臣は船の上にいて、いよいよ大臣が答える時がきました。
この時、かねてからの打ち合わせ通り、職人が人形を抱えて岸辺に立ち、そこで王は、人形を我が子と思い込み、両手を差し延べましたが、職人は大臣の指示通りに人形を湖に投げ込みました。
この時、王は溺れる我が子を救おうと、すぐに水に飛び込みました。
このあとで、大臣は「王様、ご自分から水に飛び込む必要はありません。私にご命じになれば十分ではありませんか。なぜ、自ら飛び込まれましたか。」
そこで王は「父の愛だ」と答え、大臣は「世を救うために、全能の神自らが受肉されたのは、まさにその愛のためなのです」と言いました。
確かに王である神様は一言、家臣に命じるだけで、人間を救うこともできるでしょう。しかし、神様は愛なる方の故に、人間を救うために、この世に飛び込んでこられたのです。
ご自身の命を惜しまれない神様
9歳の男の子が、大病を患う6歳の妹のために、献血をするように言われた話を聞きました。
その男の子は、妹と同じ血液型だったので、横になり、献血のために、勇気を出して腕を出しました。
男の子は怖くなって、医者に「僕はいつ死ぬの?」と聞きました。
医者は、その子が自分の血をあげるということは、自分の命もあげることだと思っていたことに、気付きました。
すぐに医者は、彼に献血しても死なないことを説明し、男の子に「なぜ妹に自分の命を与えようと思ったの?」と聞くと、彼は「だって妹が大好きだから。僕の妹だから」と言いました。
この2つの話のように、神様は私たちを愛してやまないため、イエス様によって「わたしたちのために、命を捨てて」(Ⅰヨハネ3:16)、目に見える形で愛を示してくださったのです。
私達は私達を救うために、命を惜しまれず、この世に飛び込んでくださった神様がおられること、そして、神様は今もなお私達に愛を注いでくださっていることも覚えたいものです。