「次を用意して下さっている。必ず次がある」「神様による次の一手」 |
説教 マタイ4:12-23 2023年1月22日
まず、イエス様は4章12節で洗礼者「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」のですが、洗礼者ヨハネが捕らえられる前に洗礼活動をしていたのはヨルダン川の下流、ユダヤに近い地方だと考えられています。
イエス様は洗礼者ヨハネが捕らえられて、イエス様自身はご自分の故郷とも言えるガリラヤに戻って来られるのですが、これを契機、転機としてイエス様の宣教活動が始まることになりました。
イエス様の故郷のガリラヤ地方というのはイスラエル北部の一地方であり、大きな湖の名前でもあり、またガリラヤ地方は三方を他の国に囲まれていて、常に侵略の危険があり、そのようなこともあって、ガリラヤは長い間、異邦人の支配を受けていました。
そのためにガリラヤは「異邦人のガリラヤ」と呼ばれ、ユダヤにあるエルサレムの人々からよく見られず、軽んじられていました。それは聖書のヨハネ7:52で「ガリラヤから預言者は出ない」と書かれてあることからわかります。
そのようなことでガリラヤという場所はユダヤ人から下に見られ、対等関係と見られない、まさに「異邦人のガリラヤ」と呼ばれる「暗闇の地」だったのです。マタイ4:16の「暗闇に住む町」と書かれている通りです。
他方、マタイ福音書ではイエス様がガリラヤで活動を始めたことを神様の計画と見ていて、また復活したイエス様が弟子たちに姿を現す場所もガリラヤとされています。
このように一方ではガリラヤは下に見られ、まさに見捨てられたかのような「暗闇」の場所であり、しかし、同時にその中に神の救いの計画が実現する場所、神様の救いが始まるところとして言えると思います。
このことは言葉を代えて言いますと、「暗闇の場所は正に神様の救いが始まるところ」と言え、また精神的に言うならば「心の暗闇というべき苦しみ、悲しみ、悩みが起きる時に正に神様の救いが始まり、神様の救いが実現していく」と言えるでしょう。
ある教派の牧師は元々、マイナス思考の強い人間と告白し、牧師は何かをすれば、つい失敗した時のこと、悪い結果に終わった時のことを考えてしまうそうです。
あまり自分が願った通りの結果になるようなことは考えられず、そして、悪い結果が出ると、「やっぱり」と思ってしまい、そういう少年時代、青年時代を過ごしたようです。
しかし、20歳で信仰を与えられ、主イエスと共に歩む者とされて、そのような自分の性格が少しずつ変わってきて、今は、何をしてもあまり結果を先回りして考えることがなくなったようです。
現在でも良い結果を考えて楽しむということもないようですが、悪い結果を思って暗くなるということも無くなり、結果がどうであれ、自分が出来ることを精一杯やってみて、そして、あまり良い結果が出なかったとしても、それが全てではないと考えるようになったそうです。
そして、牧師は神様が何か判らないけれど、「次を用意して下さっている。必ず次がある」と自然に思えるようになり、どんな深刻な状況の中にあっても、「次がある。これで終わりではない」と悟り、この神様による、人の思いを超えた「次の一手」こそ、「海の奇跡」であり、「主イエスの復活という出来事」で、「神様による次の一手」というものがあることを知ったということです。
この牧師は色々、苦労、苦しみ、悩みを経て、まさに本日の聖書に即して言いますと、精神的な暗闇と言うべきガリラヤの状態を経験したといえるかと思います。
しかし、牧師はが深刻な状況の時も、「神様による次の一手」があるというように、先程の聖書に即して言いますと、その「苦しい時、悪い結果の時に、正にその時に神様の救いが始まり、神様の救いが実現していった」ということと重なり合うと言えるのではないでしょうか。
さて、それでは私達の生活に当てはめて見るならば、私たちも私達にとっての暗闇と言うべき精神的な意味での「ガリラヤ」という場所があるのでないかと思います。家庭や家族の問題、仕事の問題、健康の問題、将来の問題など正に「暗黒」「暗闇」に置かれているといいう状況があるかもしれません。
しかし、その苦しみの時に、また精神的な「暗闇」や「暗黒」の時に正に神様は私たちの救いのために働かれる、救いが始まると言えるのではないでしょうか。
ある教派の牧師は「誰もが絶望している中に、誰もが期待もしない中から救いが現れるのです。もう何の命も、希望もないだろうと人の目には見えるものから、神の救いは始まる」と言われています。
私達はどのような時も、暗闇や暗黒の中にも苦しく、つらく、どうしようもない時に神様の救いが始まると言うこと、「神様による次の一手」、「神様による救いの次の一手」は「暗闇」「暗黒」のその時に私達に訪れるということを覚えまして、私達は希望を失わず、生きていきたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン