福山諸聖徒教会 教会だより 2018年3月号 |
必要とされていないことに悩む
司祭 マルコ 平野一郎
人は生活する中、人と比較して「自分には才能がない」「役に立たない」「悪いところばかりで、良いところが何一つない」などと思い、人から必要とされていないことで、悩むことがよくあります。
インドの寓話
あるインドの寓話があります。
あるとき、一匹のゾウが仲間たちとはぐれ、迷子になり、サルたちが暮らす村へ迷い込みました。
ところが、サルたちは誰もゾウには近づこうとはせず、その理由を尋ねると、サルの長老はこう答えました。
「お前さんは図体が大きいから、近寄ると、押しつぶされてしまうんじゃないかとみんな警戒しているんだ」
ショックを受けたゾウは村を出て、次にリスたちが暮らす村へとたどり着きました。
「どうせ、自分の図体はでかいから、ここでも何も近寄っては来ないだろう」
そう思ったゾウでしたが、意外にも、リスたちはゾウのそばへ近寄って、頻繁にしゃべりかけてきました。
その理由を尋ねるとリスの長老は「お前さんはものすごく立派な外見をしている。じつにたくましい身体をしている。だから、みんな、外敵から守ってくれるかもしれないと期待しているんだ。よかったら、このままずっと、われわれと一緒に暮らしてもらえないだろうか」と答えました。
この寓話から、著述家で心理カウンセラーの植西聰氏は、「その人の才能は、一ヶ所では不要とされてもどこかで必ず誰かに必要とされる」と述べています。
あなたのことを待っている誰かや何か
精神科医のフランクルの所に、「もう人生から何も期待できない」と自殺を図ろうとしている二人の仲間が相談に来ました。
フランクルは 「あなたには、あなたのことを待っている誰かが、どこかにいませんか。あるいは、あなたによって実現することが待たれている何かが、ありはしないでしょうか。たとえば、やり残している仕事、あなたがいなければ実現されることのない何かがあるのではありませんか。よく探してみて下さい。あなたを必要としている誰かがいるはずです。あなたを必要としている何かがあるはずです」と語りました。
すると、二人はしばらく考え、自分を「待っている何か(誰か)」がこの世にあることに気づき、自殺を思いとどまりました。
「あなたのことを待っている誰か」と問いかけられた時、聖書において断言されているのは神様だと言えるでしょう。
私たちに対して、「わたしは戸口に立って、たたいている」(黙示録3:20)と語っておられる神様がおられ、いつまでも私たちを必要とされていることを覚えたいものです。