福山諸聖徒教会 教会だより 2016年10月号 |
マザー・テレサの謙遜
司祭 マルコ 平野一郎
一般的に人は何かをする時、自分の力で何事もできると思い、行動しますが、しかし、それができない場合、落ち込み、「もうだめだ」と嘆くことがよくあります。
マザー・テレサはそのように活動がうまくいかないと嘆いている一人の修道者に対して、次のように言いました。
「もし何かにがっかりするなら、それは傲慢のしるしです。あなたは、まだ自分の力で何かができると思っているのです」と。
マザー・テレサ自身、38歳で古巣のロレット修道会を離れ、スラム街での活動を始めましたが、最初は苦労の連続で、孤独感を強く感じました。
当時の日記に「神よ、今日の孤独は、なんと耐えがたいのでしょう。私は耐えられるのでしょうか。涙がとまりません。こんなに弱い人間だったなんて」と書いてあるからです。
このように彼女は当初は仲間がいなく、助けてくれる人もいなく、さらにお金もなく、安全の保証もないという、ないないづくしの現実に、不安だけがふくらみ、苦しんだのでした。
そのような中でもマザー・テレサは、自分だけを頼りにするのではなく、自分の力だけで解決しようとしたのでもなく、「神よ、弱さと闘う勇気をください」と祈ったのでした。
彼女は自分の力で何かができると思わず、神様に一切を委ねて、すべてを神様にお任せしたのです。
この委ねることについて、カトリックの片柳弘史神父は次のよう述べています。
「何をやってもうまくゆかなくなったとき、苦しみの涙の中で『自分の力で何でも出来る』という傲慢な思い込みが打ち砕かれます。『自分の力ではどうにもならない、限界だ』と感じる時にこそ、わたしたちは謙遜な心で『どうか助けてください。あなたの力をお与えください』と祈ることができるようになるのです」と。
自力の力を過信した時
振り返ってみると、私たちは何かの活動、何かを始める時は、自分の力を過信し、何でもできる、努力すれば何とかなるという思いに支配されていないでしょうか。
また、物事が思うような結果にならない時は、がっかりして、落ち込む時がよくあるのではないでしょうか。
そのようなことは実は「傲慢のしるし」で、まだ自分の力を過信し、高ぶりが残っていると言えるのではないでしょうか。
力は弱さの中でこそ十分に発揮される
「まだ自分の力で何かができると思う」ことの対極にあるものは、聖書の「主は『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(Ⅱコリントの信徒への手紙12:9)というみ言葉です。
私たちは自分の力に頼るのではなく、弱さを認めて、その弱さの中で神様が働かれて、力を発揮させて下さることを覚えたいものです。