生も死も、自分の全存在の一切を神様にゆだねる |
ディートリヒ・ボンヘッファー牧師
マルコ平野一郎司祭
ドイツの福音主義のディートリヒ・ボンヘッファー牧師が処刑される前のクリスマスに婚約者マリアに送った手紙を基(もと)に作られた『善き力にわれ囲まれ』という賛歌(さんか)があります。
「良き力に真実に、静かに囲まれ、すばらしく守られ、慰められて、私は現在の日々をあなたがたと共に生きようと思う。そして、あなたがたと共に新しい年へと歩んでいこう。……
この世界について、その太陽の輝きについての喜びをくださるおつもりなら、われわれは、過去のことを覚えよう。そしてその時、われわれの生はすべてあなたのものだ。……」
その後、1945年4月9日にボンヘッファー牧師はナチスの司法当局によって処刑されることになりますが、彼の最期を看取(みと)ったヘルマン・フィッシャーという収容所付きの医師は以下のように記しています。
「その日の五時から六時の間に、……帝国裁判所判事ザックを含む囚人たちは、獄房から引き出され、戦時裁判所の判決文が読み上げられた。バラック建ての一つの部屋の半開きの扉を通して、私はボンヘッファー牧師が着ていた囚人衣を脱ぎ棄てる前に、床にひざまずいて、彼の主なる神に真摯な祈りを捧げているのを見た。この特別に好感の持てる人物の祈りが、いかにも神に身をゆだね切って、神は確かに祈りを聴きたもうという確信に溢れていたのに、私は非常に深い感銘を受けた。処刑される時にも、彼は短い祈りを捧げ、それから力強く落ち着いて、絞首台への階段を昇って行った。死はその数秒後におとずれた。私は今まで、ほとんど五十年にわたる医者としての生涯の中で、このように神に全くすべてをゆだねて死に就いた人を見たことはほとんどなかった。」
「神様にすべてをゆだねる」
聖書においては「ゆだねる」ことについて、イエス様は十字架上で最期を迎えた時、「『父よ、わたしの霊を御手(みて)にゆだねます。』こう言って、息を引き取られた」(ルカ23:46)のでした。
イエス様の「御手(みて)にゆだねます」というみ言葉は詩編31編6節の「まことの神、主よ、御手(みて)に私の霊をゆだねます」からの引用です。
「ゆだねる」とは「自分を明け渡す」という意味があり、佐藤彰牧師は「究極的には、生も死も、自分の全存在の一切を神の御手(みて)の中に託(たく)し、任せ切ってしまうこと。文字どおり、魂から何から、自らの一切を、思いきって神の御手(みて)の中に預(あず)けてしまう。あとはもう心配しない。思い煩(わずら)うこともしない」ことと述べています。
2025年の始めに当たり、「われわれの生はすべてあなたのもの」と言われる「神に身をゆだね切って」「神に全くすべてをゆだねて」「新しい年へと歩んで」行きたいものです。