私たちに生きる希望を与えてくださる聖霊 |
説教 聖霊降臨日(使2:1~13、ヨハネ14:16~17)2023年5月28日
本日は、「聖霊降臨日」「ペンテコステ」で、本来、イースターやクリスマスと並ぶ重要な祝祭日で、教会によってはこの日を創立記念日にしているところもあり、外国では教会のハッピーバースデイということで、楽しいお祝いをしているようです。
しかし、聖公会として聖霊降臨日は華(はな)やかなクリスマスやイースターの影に隠れて、目立たないように思われます。このことは祝会やパーティがなかったり、さらにクリスマス献金やイースター献金がある一方、聖霊降臨日献金、ペンテコステ献金が無いことからもわかります。
何故、ここまで「聖霊降臨日」が大きな祝祭日となって、目立たないかという理由を考えてみますと、それは、父なる神やイエス様については大体において、理解しやすいのですが、けれども「聖霊」についてはつかみ所がないように見えて、「聖霊」をイメージすることが難しいからと言えるかもしれません。
それでは一体「聖霊」とは何かと言うことですが、それを今日の使徒書と福音書において見てみたいと思います。
「聖霊降臨日」「ペンテコステ」とはイースターから50日目、ご復活のイエス様が昇天なさった日から10日目の日曜日ですが、その日に弟子たちは共に集まり、心を合わせて祈っていました。
この日はユダヤ教でも五旬祭(ごじゅんさい)という三大祭りの日でした。こういう大きい祭りの日には、バビロン捕囚(ほしゅう)アレクサンダー大王の世界征服以来、世界各地に散らされていたユダヤ人が、エルサレムにやってきました。
この当時は「ローマの平和」と呼ばれた時代で、ローマ帝国の力で道は整備され、治安もよかったので、実際国に帰りやすかったのでした。
この五旬祭(ごじゅんさい)の日に不思議なことが起こったことが、本日の使徒言行録2章1-4節で記されていて、「五旬祭(ごじゅんさい)の日が来て、一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、『霊』が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」と記されています。
ここで炎のような舌が分かれ分かれに現れ、ペトロやその他イエス様の弟子たち一人一人の上に留(とどまり、そして、いろんな国の言葉で同じことを語りだしました。世界の各地から久しぶりに帰ってきたユダヤ人たちは、もう母国語ではなく、住んでいる土地の様々な言葉を話したのです。
ここで私たちは真の主役である聖霊に促されるまま、導かれるままに弟子たちが宣教をしたので、弟子たちは何事にも成功し、伝道が万事うまくいき、弟子たちは何の苦労もなかったと思ってしまいがちだと思います。
しかし、使徒言行録の記述を見てみますと、聖霊降臨日という華々(はなばな)しい出来事の後にも、しばしば弟子たちは宣教に苦労したこと、様々な困難、問題があったこと、失敗や挫折(ざせつ)があったことが繰り返し起こったと伝えられています。
たとえば教会の内部でユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者が日々の分配のことでもめて、使徒たちがこの問題を話し合ったとか、またパウロとバルナバは宣教方針について意見が激しく衝突し、別行動をとるようになったとか、またアテネやロ-マでの伝道は異邦人やユダヤ人から理解されず、意見が一致しなかったと記されていて、弟子たちは数々の問題を抱(かか)えていたり、また一部の伝道の失敗、挫折(ざせつ)があったことが伺(うかが)えるからです。
そのような中で弟子たちが悲しみ、落胆し、絶望せずになおも意気揚々(いきようよう)に伝道を続け、人生を前向きに生きることが出来た理由は何だったのでしょうか。
このことは本日のヨハネによる福音書14:16-17から読み取ることができます。すなわち、「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである」というみ言葉です。
つまり、「弁護者ともいわれる聖霊がどんな時も特に辛(つら)い時も苦しい時も弟子たちと共におられて、導き、支え、慰めてくださったから、彼らは希望を持ち続けて、前向きに生きていくことが出来た」と言えるでしょう。
最初に「聖霊」とは何かと言うことを本日の使徒書と福音書において見てみたいと述べました。
そのことについては先ほどのヨハネによる福音書に記されているように「私たちを弁護してくださる方、私たちと共にいてくださる方、前向きに生きる力を与えてくださる方、慰めを与えてくださる方」であると言えるのではないでしょうか。
私たちの日常の現実を見てみますと、私たちも生活を歩む中で弟子たちのように人生の上で様々な困難、問題が起こったり、また失敗や挫折(ざせつ)を繰り返し起こして、時に失望したり、悲しみ、悩むことがよくあろうかと思います。
そのような時に、「聖霊は私たちの上に降って、私たちと共におられ、私たちは励まし、慰め、勇気を与えてくださって、私たちに生きる希望を与えてくださる」のではないでしょうか。
私たちは自分の力で何とかして歩もうとせずに、常に聖霊の力を頂いて、今後も歩んでいき、弟子たちのように宣教、伝道をしていきたいと思います。
父と子と聖霊の御名によって、アーメン